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Top 矢印 記事一覧 矢印 #3 灯火を胸に。(友田智佳恵さん)「一緒に、自分らしく生きようよ。」 友田智佳恵さんが見出した、人生における新たな “Role”とは。 

#2「“生き様”を言葉に。」の振り返り
 スピーカー活動を通じ、自身のケア経験を多くの人に共有している友田さん。彼女が紡ぎ出す豊かなメッセージの背景には、自分自身との向き合いの蓄積と、彼女が持つ“言葉”に対する哲学があった。自分の「生き様」を示し続ける彼女のライフストーリーは、多くの人々の心を熱く揺り動かしている。
                                  【取材・執筆: 氏原拳汰】

(前回の記事はこちらから)

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 中学時代から母親の介護が始まったことで、ケアラーとなった友田さん。それから現在に至るまで、彼女のケアラーとしての肩書きは目まぐるしく移り変わり、つい最近までは「トリプルケアラー」と呼ばれる状態だった。

 “おばあちゃんの認知症が始まってから、本当に精神的にきつくなってしまった時期があったの。「これは、何かがおかしい…」みたいな。そこから、自分と向き合うようになっていった感じかな。”

 今から6年ほど前(2017年頃)、祖母が認知症になった。その当時、友田さんの長男はまだ小学校の低学年で、それより幼い長女の子育てもあった。さらに、母親の介護も引きつづき担っており、友田さんのケア負担はますます増していったという。 

 “おばあちゃんとお母さんのケアを同時に担っている中ですごく違いを感じたのは、基本的に、私はお母さんのことが大好きだった。だから、お母さんのケアについてはあまり負担に感じなかったんだよ。どちらかというと、やってあげたい気持ちの方が大きかった。でも、おばあちゃんとは元々、馬が合わない部分があって、関係性はそんなによくなかったの。やっぱりね、好きじゃない人のケアをするってすごく大変だよ。

 特におばあちゃんは、人の気持ちを深く読み取るのが得意ではなかったから、あまり対話みたいなこともできなかったの。コミュニケーションが取れなかったのは、すごいきつかった。家族だから気にかけてはいたんだけどね。

 でも、介護が本当に大変だったのはここ2年ぐらい。急激に認知症が進んで、トイレも上手くできない状態になったりとか、家にいるのに「帰る!」って騒いだりすることもあった。”

――確か、おばあちゃんはアルツハイマー型認知症を患っていらっしゃいましたよね。暴言等の対応も大変だったと以前、お聞きしていたような気がします。

 “すごく大変だった。認知症になる前の関係性があまりよくなかったからこそ、 「おばあちゃんが元気なときですら私は傷つけられていたのに、なんで病気になってからもこんなに責められなきゃいけないんだろう…」って思ってたかな。“

 大きな困難感を抱いていた祖母の介護。最終的に、祖母を施設に入れるまでケアは継続した。その経験を通じて、友田さんはある気づきを得たという。

 “ケアって、「家族の関係性との向き合い」だと思うのね。だから、ケアの負担度がどれくらいかとか、どういうサービスに繋がるべきかとかの問題って、当事者にとっては、ある意味二の次であって、一番向き合わなければいけないのは、家族とのパートナーシップだったりとか、コミュニケーションだったりとか、関係性の部分だったりするじゃん。多分、「ケアで悩んでます」っていう人たちの大概の悩みは、 深掘りしていくとそこに行き着くと思う。本音を言い合えないとか、対話ができないとか…。

 実際に私もおばあちゃんとの関係性で悩んでた。嫌いだったおばあちゃんが認知症になって、「なんで今まであんなにひどいことをしてきた人の面倒を私が見なきゃいけないんだろう」と思ってたの。

 だから、最初のうちは「なんで私の気持ちを分かってくれないんだろう」って感じてた。でも、介護を通じて、これまでの日々を色々と振り返っていく中で、おばあちゃんのそういうきつい態度とかって、おばあちゃんなりの愛情だったんだっていう風に思ったんだよ。すごく不器用な人なんだなって。

 私は最初、それを愛情だとは思えなかった。だって、私の本音を聞いてくれないし、いつも上から頭ごなしに言ってきたから。でも、そうじゃなかったなって気づいた瞬間があって、そこからは気持ちが楽になったんだよね。“

――愛情ですか。そういう風に気づいたきっかけは何かありましたか?

 “やっぱりね、おばあちゃんがなぜそんな偏屈な性格になったのかを考えたときに、多分ね、「役割を生きすぎた」のよ。自分の本音を二の次にして大きな責任を背負いながら生きてきたんだと思う。

 だからこそ、その責任を果たさなきゃって思うが故に、人にきつく当たってしまったりとか、自分がいっぱい苦労してきた分、家族に苦労させてはいけないっていう一心で、「こうしなさい、ああしなさい」って言ってきたりしたんだろうなって。しかも、私自身も子どもにそう接してしまっているときがあるなって思ったの。

 そういうことを考えていく中で、やっぱり自分が自分らしく、いきいきと生きていることこそが、周りのみんなの幸せに繋がるんだって感じてさ。別に何かを与えなくても、私が自分らしく生きようとしていることで、子どもたちは私の背中から、何かしらのメッセージを受け取ってくれたりするんだよね。だから、「そんなに世話を焼く必要はないんだな」って思えた。おばあちゃんの生き様と自分の生き様を比較した中で見えてきたことが、すごく多かったかな。“

――苦手な身内の介護という、ただでさえ骨の折れる作業の中で、ケア対象者の人生を冷静に分析しながら、自分の生き様との比較まで行うのは、きっとかなりの労力を必要としますよね。

 “そうだね、しんどかったよ。今の私は、インタビューをしていただくことや、自分のライフストーリーを語らせていただくことが多いんだけど、その中で自分の人生を振り返ってみたときに、今と昔とで、自分の過去に対する意味付けが全然違うものになっているの。

 ケアが始まった当時は、苦しい、辛い、しんどい、もうやりたくないっていうような意味付けだった。でも今は、そういう時期があったから、比較的納得感を持って、自分自身と向き合える部分が多いんだと思えてる。多分私の頭の中では、「それがあったから今がある」っていう考えが強いんじゃないかな。

 私はこれまでの人生の中で、何度もケアの経験を捉え直したり、その意味付けを変えたりしながら生きているから、過去に対する解釈も、自分の中でどんどん変わってきたんだよね。でも、「それがあったから今がある」って思える人は強いと思う。過去に捉われ過ぎない一方で、ちゃんと、過去に辛かった経験とも向き合って、自分の感情をじっくりと味わいながら、その都度、自分で自分の存在や生き様を認めていくことって、大切だと思うから。

 特にヤングケアラー時代とかさ、子ども時代って、自分自身で生まれ落ちる家族、場所、時代みたいなものは選べない。だからある意味、自分では選択できない「宿命」みたいなものは、みんなそれぞれ抱えていると思う。でも、自分の力ではどうしようもできないことを、どういう形で捉えて、どういう風に解釈するのかっていう部分は、唯一自分でコントロールできることだからね。だからこそ、自分でコントロールできることに注力していくことが、やっぱり大事なことなんだと思う。

 でも、コントロールできないこともあるんだよ。私の場合も、生まれた時からもうおじいちゃんは障害者だったし、お母さんだって、別に倒れたくて倒れたわけじゃない。おばあちゃんも、自分から望んで家族にきつい言い方をしたわけじゃないと思う。そういう自分以外の人生の流れっていうのは、やっぱり自分一人で変えることは難しいよね。“

 自分の人生の「解釈」はケアラー自身でコントロールしていくもの。その考察は、友田さんのこれまでの経験に裏打ちされているだけではなく、彼女自身が持つある“信念”に基づくという。それは、「ケアラー個人が持つ力を信じる」という確固たる想いだ。

 “講演会とかでよく質問されるのが、周囲の人が本人に対して「ヤングケアラー」だと気づかせてしまうと、かえってその子どもの悩みや不安を強くしてしまうんじゃないか…、っていう内容なのね。

 でも、周囲がその子の可能性を100%信じていれば、仮にその子が悩みに直面したとしても、それを本人が乗り越えられるように見守っていけるはずなんだよ。そもそも、子どもに対して100%の信頼があれば、それは出てこない質問だと思う。でもやっぱり、そういうことを皆さんは心配している。

 私は、ケアラー自身が1歩を踏み出せることが大切だと思っていて、その子のタイミングが来たとき、誰と巡りあえるかっていうことの方が遥かに重要だと思うんだ。そのタイミングを待たないのは、かえってよくないと思う。“

――ケアラー自身がちゃんと選択できる「余白」があることが大切だということですよね。それこそ、友田さんは支援者の方や行政の方ともたくさん関わっていると思うのですが、支援にあたって、そのような認識のズレを感じるときはありますか。

 “ズレというか、「支援しなきゃいけない」、「その苦しい状況からは早く救ってあげなきゃいけない」みたいな考えが強い気がする。やっぱり支援っていう言葉を使う以上は、苦しい状況の人を助けてあげるっていう意味合いは間違いではないと思う。

 でも、「あなたは苦しいだろうから、この制度を…」みたいな方向性ではなくて、 その人が自分の現状や気持ちとちゃんと向き合う中で、「自分の人生を良い方向へと変えていこう」って思えるような、そういう心の土台を作っていくことの方が大切だと思うんだよね。それはやっぱり、その人自身の一歩じゃないと意味がない。

 あと私は、あまり「支援をしている」とは思ってないかな。なんだろう…、「一緒に、自分らしく生きようよ」みたいな(笑)。だから、支援っていうよりも、本当にその人の力を信じてる。“

 ケア役割を担う子どもや若者が持つ可能性に対し、絶対的な信頼を口にした友田さん。その信念は、彼女がケアラーとして人生の困難と向き合いながらも、ひたむきに自分自身の可能性を信じ続け、自らの人生を切り開いてきたからこそ、育まれた想いなのかもしれない。

 友田さんは、自身の今後についてはどのように考えているのだろうか。最後にこれからの展望について聞くと、こう答えてくれた。

 “皆さんに元気をお届けしたいな(笑)。具体的にはやっぱり、スピーカー活動になってくると思う。

 すごい抽象的な話になるんだけど、皆の心の中にローソクみたいなものがあるとするじゃない? それが、ちゃんと自分を発揮できるようなエネルギー源に繋がると、その人の灯火は燃え続けると思うんだ。でも、そういったものに繋がることができないと、少し風が吹いただけで、その人が持つ炎の形は歪められちゃうし、その火は消えかけてしまう。

 私としてはやっぱり、ケアラーがその人らしく、自分を発揮できるような社会になってほしいし、その人が本来心の中に持っている「灯火」を燃やし続けていくお手伝いができたらいいなと思ってる。

 課題解決に入る前に、まずはそこではなく、「あなた自身を知っていこう」って。自分は何に喜びを感じ、何に悲しんでいるのか、何が苦しいのか、何に怒っているのか…。それらをちゃんと見ていった上で、「自分なりの灯火を灯そう」って、そういうメッセージを伝えていきたいかな。“

 自身のライフストーリーを共有することで、聴く人の心に熱き炎を灯す。それこそが、今もなおケアラーとして生きる友田さんが見出した、人生における新しい“Role”だった。これからも彼女は、豊かな言葉を紡ぎながら、自らの“生き様”を多くの人々に伝えつづける。――

(完)

プロフィール

友田智佳恵

 12歳のときに母がくも膜下出血で倒れ障害を負ったことにより、ヤングケアラーとなる。当時はヤングケアラーの自覚はなく、大好きな母のためにと、自分にこなせるケアを担いながら学生時代を過ごす。現在は子育てと介護を担うダブルケアラー・元ヤングケアラーとして、様々な講演会にて自身の経験や思いを語りながら、一般社団法人ケアラーワークスのピアサポートスタッフとして、ケアラー支援に携わっている。(Instagram

 

インタビュアー・執筆

氏原拳汰

 元若者ケアラー。大学時代にレビー小体型認知症の祖父の介護を経験したことから、ヤングケアラー・若者ケアラーへの支援の取り組みに関心を持つ。現在は心理系の大学院に通いながら、ヤングケアラー協会の活動に参画中。また、友田さんと同じく、一般社団法人ケアラーワークスでもアルバイトスタッフを務める。個人HP

 

執筆協力

そら

 元ヤングケアラー・現若者ケアラー。重度の障がいのある弟のケアをしている。将来はケアラー支援に携わる仕事をしたいと考えており、社会福祉士の取得を目指す。ヤングケアラー協会が主催するイベントにも参加している。

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