高次脳機能障害の母のもとで生まれ育った高橋唯さんが、学生時代からインターネットを通じてヤングケアラーの日常生活や家族について発信していくなかで、ひとりの娘として感じること。
2023.03.27
「本当に私と似たような経験をした人っているのかな?」勉強と部活に専念し、幼少期とは違う母への気持ちを抱いた学生時代に、試行錯誤しながらもケアの日常を発信し続けたことで出会ったこと、感じたこと、そして今も続けるそのモチベーションについて聞いた。
ーまずは、自己紹介をお願いいたします。
現在25歳です。大学を卒業してからは地元で会社員として勤務しながら、私が生まれる前に起きた交通事故の後遺症によって高次脳機能障害と片麻痺のある母のケアを続けています。
ーお母さんの高次脳機能障害について、お話しください。
母は記憶の障害が一番顕著で、言われたことや自分が言ったこともすぐに忘れてしまいます。例えば買い物に行っても何を買いにきたのかが分からず、メモにしても、そのメモを家に忘れてきてしまうこともあります。また、注意障害によってひとつのことに集中ができないので、目についた色々な物が気になり注意が逸れてしまいます。たとえばご飯を食べている最中に洗濯物が気になって洗濯物を干しに行き、干し終わってもいないのに今度はテレビを観始めます。それも1時間の番組を最後まで見続けることができません。逆に一個のことに集中しすぎて他のことに全く注意を配れないこともあります。他にも、遂行機能障害によって、何か計画を立てて物事を進めるというところも苦手で、たとえばどこかに出かける際に、何時から準備しよう、何を持っていこう、と考えることが難しいようです。
ー今は唯さんがケアをされていますが、幼少期の生活ではどうでしたか?
当時、父は家で仕事をしていましたし、近くに住んでいる父方の祖母が中心になって私の面倒をみてくれていたので、母と幼い私が2人きりになることはほとんどありませんでした。実は父も事故で片腕を失っていますが、今では外に働きに出ていますし、昔から何でも自分で出来る人でした。
母には衛生観念があまりなく掃除や料理などの家事が苦手で、やろうという気持ちはあるのですが、なかなか上手くいきません。だからと言って最初から母の代わりにするのではなく、まずは母がやってみて、ダメだったら他の家族がやるというのが中心でした。家が汚くても生活はできますし命の危機があるわけではないので、他の家族が代わりに掃除を一生懸命にやるわけでもありませんでした。ただ料理については、生のお肉を野菜の上に長時間放置してしまったり、お肉を生のまま食卓に出してしまうことがあり、そういう時は私や父が作り直していました。
当時、私自身はそこまで困っているような感覚はなく、例えば肉が生のままで食卓に出てきてしまったら、その場でレンジに入れたらいい話であって、誰かを呼んでくる必要はありませんでした。その都度その場で対処できてしまっていたので、困っているとか、誰かの手をかりなくては、という発想がありませんでした。
ただ、母が少し変わった人なのかな、と思い始めたのは小学生の時でした。例えば用もないのに、コインランドリーに1時間ほどいたり、親戚がいるわけでもないのに近所にある高校の文化祭のリハーサルに入ってしまうなど。そういうちょっとした変わった行動が気になるようになりました。私は、あれ?と思いながらも、大人がやっていることだから間違ってないだろうと思い、もちろん気まずかったのですが、母と一緒にコインランドリーにいたり、その文化祭で一緒に高校生を眺めていたりしました。
何か特別なことがあったわけではなく、日々、目の前の事に対応していているうちにだんだんと”少し変わっている”とは違う、と理解していきました。例えば、私が外に生えていた植物の蕾をおままごとのために持ちかえった日、母がその蕾をお味噌汁に入れてしまった事がありました。食べられる野菜との違いは幼い私でもわかるのに、母には分からないのだと理解しました。それから母が間違ってしまうかもしれないから家に外の植物を持ち帰ってきちゃダメというルールができ、間違っているのは母なのに、どうして私がダメだと言われるのかと不満を感じたのを覚えています。母が何かしてしまうからこうしよう、という対処を私は小さい頃から積み重ねて、母の都合で行動するという考え方が習慣づいていました。
ー年齢が上がるにつれてやりたいことが増えた時期などに、お母さんへの気持ちの変化は何かあったのでしょうか?
小さい頃の私は母のことが好きだったのですが、中学生になり自分のやりたいことが増えてくると、勉強や部活で追いつくことに必死だったので、母に話しかけられるだけで邪魔だなぁとイライラしていました。母に会いたくない時は最低限の用事でしかリビングに行かなくなりました。
学校に行くことは好きではありませんでしたが、勉強は好きだったので救われていました。もし勉強以外のことが好きだったら、他にしたいことがあるのに、勉強も母のケアもして大変だったと思います。ある意味で学校にいる間は勉強という逃げ場があったのかなと思います。私はクラスで何かやる時間にも1人で教科書を広げているような子供で、担任の先生から協調性がないと怒られるくらい、クラスの友達に対してあまり関心がなく休み時間も勉強をしていました。
実は中学校に上がる時、ケアか、自分の事か、どちらを頑張ったほうがいいのかと考えた時期もありましたが、自分のしたいことを頑張ろうと決めました。中学生の時は入っていた部活がハードで家にいる時間が短く、母は放ったらかし状態だったと思います。本来なら、お母さんのことが心配で早く帰ろうと思うかもしれませんが、当時は自分のことを一生懸命にやろうと思っていたので葛藤などはあまりありませんでした。両親に障害があるとか家が汚いとか、自分にとってはコンプレックスでしたがそれを自分の中で言い訳にしたくなかった。このコンプレックスを周りから気づかれないくらい頑張っている自分でいたいと思っていました。家での生活はとても良いとは言えるものではありませんでしたが、学校にいる時は、私は勉強も部活も頑張ってるから”普通”なんだと思いたかったんです。家のことで忙しいからしょうがないよね、と思われるのが嫌でむしろ普通以上に頑張りました。
ただ、大学生になって一人暮らしをはじめてからは少し違う感情もありました。そもそも一人暮らしするつもりはなかったのですが合格通知が送られてきた時、父は遠くて通いきれないだろうと言って、一緒にアパートの見学に行きました。たまに実家に帰ったときは、実家に住んでいたときよりも、母と良好な関係が築けていたと思います。物理的に離れることで少し優しくできますね。
ー学生の時に周りに相談できるような人はいましたか?
家族について話す友達は多くはいませんでしたが、特に相談したいとも思っていなかったです。中学生くらいになると家の話ってそんなに学校でしないというか、友達同士の話題だったりが多いので、あえて家族の話をしたいとは思いませんでした。自分では学校に遅刻しないで毎日行っているし宿題も出していたので、学校生活では問題がないと思っていたので。問題があれば話していたと思います。
ー主に家族でケアをしていくなかで、福祉サービスなど何か利用されたものがあれば教えてください。
母は家で家事をすることが母なりのリハビリなのだ、と父や母方の祖母も考えていたので、家事は基本的に母に任せていました。それに加えて、ヘルパーさんにもお願いしていなかったのは、当時は家事を手伝えるのは介護対象の人の分だけだと言われていたからです。例えば洗い物は母1人分のお皿しか洗ってもらえないので、その場で父と私が食べ終わった洗い物があったとしても、母1人が使った食器しか洗えない。当時はそういうシステムだったと聞いています。学生時代は忙しかったのですが、母は食事のケアやずっと付き添うようなケアは必要なく、本人がやりたいように出来ている部分も多かったので、施設に入所するという発想はありませんでした。また、通いのデイサービスは高齢者向けという印象があり、母の歳では関係ないとも思っていました。
それでも年齢を重ねるにつれて、家に母をひとりで置いておくのは不安だと感じるようになり、通所施設を探すことにしました。大学4年生で母が通う施設を探し始めた頃は、就職活動と被ってしまい苦労しました。母のための施設やそこへの見学など色々と提案してくださったケアマネージャーさんがいたのですが、大学からは早く就職しなさいだとか、面接に行きなさいと言われていて就活とケアで板挟みのスケジュールでした。最初は母が作業所でなら働くことが出来ると思っていたので、就労継続支援B型の作業所へ見学に連れて行ったこともあるのですが、単純な作業でも母が作った物は商品としてお渡し出来ないレベルでした。しかし、より介護度が高い方たちが集まる施設では、母が今出来る事を活かせないのかなと思ってしまいました。なんとかデイサービスを見つけ、結局母が通えるようになったのは私が就職した年の9月です。母は最初は行きたがりませんでしたが、なんとか説得して連れて行きました。今通っているデイサービスは気に入っているようで、毎日のできごとをよく話してくれています。
ー周りに話したくても言えないままの人や、自分の家族を隠すことに罪悪感を感じたりする人も多いなかで、唯さんがお母さんと一緒に動画を撮影したり、いろいろな形で家族について発信するようになったきっかけについてお聞かせください。
小さい時から両親が障害のある状態で私を産んだことに疑問があり、私の他にもそういう人っているのかな、私と似たような経験をした人と会いたいな、という気持ちがありました。小学校の頃から、インターネット掲示板に母のことについて書くようになり、高校生あたりで母のことについてのブログも用意したのですが、あまり長続きはしませんでした。今のようにメディアを通して発信し始めたのは大学3年生の頃です。
ーヤングケアラーの方達も直接周りの人に相談できる人は、あまり多くはいないようです。そういった意味でインターネットを利用することはとても有効だったように思えます。ただ、外に向けて発信することには常に大きなハードルがありますよね…。
中学生の時に、家族との生活を描いたコミックエッセイが流行し、私も家族について伝えるにはコミックエッセイを書くしかないのではと考えました。それから絵付きのブログを書いたりもしていたのですが、絵と文章の両立は負担がありました。また実在している母についてこんなこと書いていいのかなという気持ちや、なるべく明るいことを書こうとして現実離れすることにも抵抗がありました。かといって現実よりにしようとすると、どんどん嫌な話や愚痴みたいになってしまい、投稿しては消すことを繰り返して、結局続かなくなってしまいました。
ーお母さんとの日常生活や、唯さんが感じたことを正直な気持ちを発信していることに共感して救われる人も多いのではと思いますが、発信し続ける中で、周囲の反応について思うことはありますか?
私が健康に大学まで行けたという意味では、障害を持っている方よりも恵まれていると捉えられてもおかしくないかなと思っています。でも、健常者同士の家族の愚痴はよくある事として捉えられるのに、私が母の愚痴を言うと急に障害者をいじめているような印象を持たれてしまいます。どれだけ自分が辛いと思っても「障害のあるお母さんの方が辛いでしょう」と思われてしまうので、母より恵まれている人として自覚を持った発言をしていかないといけない。母がどうこうではなく、私の現状が大変だということは言いづらく、どうしても私のこと単体でみてもらうことが難しいです。
ー発信を始めた当初は、自分と同じような境遇を持った人がいるのか知りたかった。それから何度か発信することが止まったこともありながら、今現在も発信を続けられているその目的やモチベーションにはどんな変化があったのでしょうか?
昔は本当に自分と似た経験をした人がいるのかという疑問から発信をしていましたが、ヤングケアラーという言葉と出会って以降、私と似たような経験をした方々に出会うことができ、その成功体験が今の発信活動のモチベーションになっています。現在は、ケアをしていて辛いことがあっても「これは人に話す機会があったら話題にしよう」と思うことで、発信活動が日々のケアのモチベーションにもなっています。
今後はヤングケアラーに関する活動をしながら、自分の家にも向き合っていきたいと思います。実は未来を見据えて、母に施設に入所してほしいと思っているので、施設について調べることから始めて、生活を整える時間を取りたいと考えています。
高橋唯 「たろべえ」の名でブログやSNSで情報を発信中。1997年、障害のある両親のもとに生まれる。母は高校通学中に交通事故に遭い、片麻痺・高次脳機能障害が残ったため、幼少期から母のケアを続けてきた。父は仕事中の事故で左腕を失い、現在は車いすを使わずに立ってプレーをする日本障がい者立位テニス協会に所属。現在は社会人として働きながら、ケアラーとしての体験をもとに情報を発信し続けている。『ヤングケアラーってなんだろう』(ちくまプリマー新書)、『ヤングケアラー わたしの語り――子どもや若者が経験した家族のケア・介護』(生活書院)などで執筆。第57回「NHK障害福祉賞」でヤングケアラーについて綴った作文が優秀賞を受賞。
ライター:柴田ロマン
カメラ:柴田ロマン