メニューボタン メニューボタン
Top 矢印 記事一覧 矢印 【#3】支えられる側から支える側へ――高校時代にひらけた、そらさんの世界

#2 『学校に行けない日々と母のケアの重圧』のあらすじ

中学時代のそらさんは、弟のケアや家族の不和で心身とも限界に近づく母のケアを最優先し、買い物や家事だけでなく、母の精神的ケアも行った。弟への愛情と複雑な感情との間で揺れながら、家族と向き合う中で、「きょうだい児」という言葉と出会い、「苦しいのは自分だけじゃない」と気づく。

(#2はこちら→https://youngcarer.or.jp/ycmedia/interview/2435/)

──中学までは家庭内のつらさを本格的に話せる大人はいなかったと話していましたが、高校に入ってから変化はありましたか。

高校には、「好きな授業が受けられるなら行く価値があるかも」と思って進学しました。高校生になってからは、弟の入院の頻度や急病になることが減って、弟も自分も家にいる時間が増えたので、弟とまた遊ぶようになりました。

弟は中学生ぐらいから体力がついて構ってもらいたい気持ちが増したのか、コンセントやカーテンを引っ張ったり、テーブルや床にあるものを全部つかんで投げたり、いたずらをいっぱいしてくるようになって。もともと常時見守りが必要なうえに、注意もより一層必要になったんです。

母のほうは、高校1年生の終わりぐらいまで、体調があまりよくない状態が続いていたんですけど、高校2年生になってから少しずつ回復してきて、少し楽になりました。両親のけんかも減っていきました。

それと同時に、高校1年生の担任の先生が家の話を聞いてくれるようになりました。自分の家のことを真面目に、何回も何回も時間を作ってもらって話したのは、それが初めてでした。それまでは「学校って、学校のことしか相談しちゃいけない」みたいな感覚があって。家のことで困っているときも、先生に相談していいんだって思えたのは、そのときが初めてかな。

オンラインのきょうだい児の会、ヤングケアラーの会とかに参加し始めたのも、将来の夢ができたのも、友達と深い話ができるようになったのも高校生になってからですね。いろいろ含めて「世界が広がった」という感じがあります。「ヤングケアラー」という言葉は、高校1年生のときにSNSで知りました。知ったばかりのときは「そういう言葉もあるんだな」ぐらいの認識でしたが、きょうだい児を支援している人にオンラインで「身体的な介護がクローズアップされがちだけど、母親の愚痴を聞いたり、精神面を支えている子どもたちもケアラーなんだからね」と言われて、自分はきょうだい児であり、ヤングケアラーでもあるんだと、より実感するようになりました。

 

――家庭や家族のケアのことを、担任の先生に話してみようと思えたきっかけは、どんなことだったのでしょうか。

高校1年生の担任の先生からホームルームの時間に、それまでの話の流れから「あなたの家のご両親はけんかする?」って聞かれたことがあって、「この場では言えないんで、別の時間を作ってもらえたら話します」って半分ふざけて言ったら、先生が「絶対作るね」って言ってくれて。

1、2か月後にしんどいことがあって、「そういえば、先生が前にそう言ってたな」と思い出しました。チャットで「本当に時間を作ってもらえるならありがたいです」って送ったら、「そらは学校のことも頑張ってるし、申し送りで家のこともそれとなく知ってるから、じっくり話したいと思ってたんだよね」って返してくれて、それがきっかけで話すようになりました。

高校2年生になって担任の先生が変わったんですけど、高校1年生のときの先生が気遣ってくれて。「話せる相手をもっと増やしたほうがいい」と思ったのか、私は職員室に遊びに行くときにその先生が目当てで行ってるのに、「そら、この先生とも話してみなよ」みたいな感じで、別の先生を呼んできてくれたんです。そして、別の先生が私のところに来たタイミングで、その先生はスーッといなくなっちゃう。

そういうことが何回かあって、ほかの先生とも、なんとなくしゃべれるようにしてくれました。そのとき、自分でもびっくりしたのは、「自分ってこんなに話したい人間だったんだ」ってことですね。

 

――学校での友人関係はどうでしたか。

通信制の高校に通っていたのと、コロナ禍の影響もあり、長期間オンライン授業が続いていたんですが、学校にはいろいろな事情がある子たちが集まっていたんです。体調不良が原因で不登校になった子もいれば、人間関係でそうなった子、勉強が苦手な子とか。みんな何かしらある状態だから、友達はすごく作りやすかったです。

それぞれ繊細なところとか、気にしいなところがあって。中学の頃にしんどかった話とか、それをどうやって乗り越えてきたかとか、最近の悩みも話し合ったり。そういう深い話が自然とできるようになったのも高校からだと思います。高校の友達とは、今も時間が取れるときに会ったり、電話したりしています。

――高校生活を送る中で、大変だったことはありましたか。

しんどかったことは大きく二つあって、ひとつは高校1年生のときの母の家出ですね。家出したあと、次の日に祖母が弟を迎えに来て、「実家で面倒見るってお母さんが言ってる」と言って弟を連れて行ったんです。

そのとき、私は「あなたもついてきなさい」とも何も言われなくて。オンライン授業もあったから、家で授業を受けられるようにっていう配慮だったのかもしれないんですけど、「私の意思を聞かれもしなかったし、私だけ置いていったのかな」と思ってしまって。

もうひとつは、弟のコロナ感染のリスクを減らしたいという母の希望で、2か月ぐらい、自分だけ自宅でオンライン授業を受けていた期間のことです。

その間に、友達同士でいろいろあったみたいで。戻ったら、「いない間にあった出来事を、わざわざ説明するのもなぁ」という空気を感じたり、知らない間に付き合い始めた子がいたり。自分だけ知らないことが多いんだなって、ほかの子との埋まらない差を感じて、結構しんどかったと思います。

オンライン授業のときに、先生が私のことを忘れていたせいで授業につながらなかったこともありました。「ラッキー。授業を受けないでいいぶん、好きなネット動画が見られる」と思いながらも、「先生にとっては欠席になってるんだろうな」と。それを担任の先生にどう伝えたらいいのかも迷いました。

 

――高校時代は、お母さんのケアはどうしていましたか。

中学から高校1年生までは、母の体調が安定しなくて、3日寝込んで1日元気になって、また2、3日寝込むみたいな感じでした。1日でも元気になったらすごく嬉しいんですけど、「明日にはまた動けなくなってるんだろうな」みたいな諦めもあって。

でも、高校2年生からはだいぶ変わってきて、純粋に「母は本当に元気になったんだな」って思えるようになりました。ただ、最近も昼夜逆転の生活になることがあって、「早く寝て」と言いたいけど、「昼夜逆転してる自覚あるんだ。頑張ってね」って、遠回しに「生活リズムを直してよ」ってメッセージを送ったりしています

 

――そらさんが、オンラインのピアサポートの集まり、きょうだい児の会やヤングケアラーの会にも参加し始めたのも高校生の頃でしたよね。

高校1年生のとき、きょうだい児のピアサポートを行っている団体が、コロナ禍に中高生向けのきょうだい児の会をオンラインで開催するのを偶然ネットで知って、初めてそうした会に参加しました。

それまで自分ばかりつらい体験をしてきたと思っていたけど、似たようなことを経験している人がたくさんいるというのをそこで知りました。「これまで思ってたことって、自分だけじゃなかったんだ」「みんなが次の1か月頑張るんだったら、自分も頑張って、1か月後にまたみんなと会いたいな」という気持ちになれました。オンライン上だけど、やっぱり話せる相手がいるのは全然違うな、と気持ちが一変しました。

それとは別に、他のきょうだい児の方と一緒に、大学生や20代のきょうだい児、その支援に興味のある人たちが、オンラインで話し合う会の企画にも携わるようになりました。若い世代のきょうだい児同士や、きょうだい児を支援したい人とのつながりはこれまであまりなかったので、「さらに若いこれからの世代向けに、こういう場所を続けられたらいいよね」という話をして、今でも不定期で活動を続けています。回によって、きょうだい児同士の話が中心になることもあれば、支援したい人が「こういう支援方法はどうですか?」ってきょうだい児に聞く回もあって、毎回雰囲気が違うのが面白いです。

 

――そうした出会いや活動の中で、なにか心境の変化がありましたか。

中学生ぐらいから「人を助けたい」という思いが募っていました。小学生のときも、卒業文集に「医者になりたい」とか書いていたんです。最初は「弟のような障がいのある人を助けたい」という思いがあり、医師とか理学療法士になりたい、みたいなイメージでした。

でも、高校1年生のときに、「障がい者の周囲では、差別をなくそうとか、支援する側の働き方を整えようとか、いろいろな支援活動をしている人がいる。一方で、きょうだい児やヤングケアラーに対しては、支援する人がまだまだ少ないな」と思ったんですよね。心理学科に行くか福祉学科に行くかで悩んだ末に、「社会福祉士の資格を取って、きょうだい児やヤングケアラーの支援に関わりたい」と考えるようになりました。夢が叶ったら、私の知らない悩みや困難もわかち合いたい、学びたいと思っています。

――今は大学に通っているそうですが、卒業した後の生活についてはどう考えていますか。

就職先が自宅から遠ければ一人暮らしだろうし、近ければ実家のままでもいいけど、自分の性格からすると、就職先を実家の近くから探してしまいそうですね。

結局、母のことを放っておけないんです。今もみんなが母の味方になってくれるわけじゃない。弟もパパっ子でもあり、ママっ子でもある。母も弟がいないと生きていけないみたいな人だし、弟の体調がまた悪くなったら人手が必要だろうし。母と弟を守っていくためには、私が家にいないと守れないっていうのがあるので。

きょうだい児、ヤングケアラー、両親の不和、不登校――私は社会問題を凝縮してコンプリートした感じかもしれないですね。

ヤングケアラーとして言えば、家族のケアはしなくて済むならしたくなかったっていうのは、みんな共通してるんじゃないかな。ケアの負担は、弟が亡くなれば、弟に関してはなくなるかもしれないけど、母へのケアは続いていくと思うのでゼロにはならないんじゃないかな。ちなみに、私がきょうだい児やヤングケアラーの集まりに参加していることを家族には話していません。

 

――弟さんの体調は最近どうですか。

最近はケアの負担も以前よりは軽くなっているんですが、やっぱり病弱で風邪が重症化しやすい不安があって。大きな病院だと感染症の検査なども細かく行ってくれるけど、家のそばの小さな病院だと医師が主治医制じゃなくて曜日で変わってしまうのも困ります。

私はいまヤングケアラー、元ヤングケアラー、若者ケアラー、どれなのかな。複雑な年齢だなって感じるときが多いですね。仮に福祉の制度につながることができたとしても、18歳を境に利用できる制度が変わって支援が切れることがあるし、きょうだい児やヤングケアラーの活動をしていて、それも問題だと思います。

支援してくれる方々にお願いしたいことは、親と子どのの意見は違うから、親との間に入ってくれる人が絶対にほしい。あと、対面活動やオンラインも駆使して、ケアラーの居場所や支援につながることができる選択肢を増やしてほしい。近くに子ども食堂が一か所あるけど、私自身不登校の時期があるので、知り合いがいたら行きづらい。本音を言えば、いくつかある中から選べたらいいですね。大体そもそもどういう支援があるのかわからないし、自分で調べてもわかりづらいから、教えてくれたり、わかりやすくしてほしいです。

きょうだい児、ヤングケアラーと、支援の分野によって、私たち支援される側も話す内容やタイミングを変える必要があります。それによって相談しづらいのも、私が支援する側になって改善していきたい課題です。

 

家族のケアや調整役を一身で引き受けてきたそらさんは、高校時代の先生や友達、支援者との出会い、オンラインでのつながりを通じて、「支えられる側」から「支える側」へと“Role”を変え始めました。その姿は、支援の狭間に立つ子どもたちに重くのしかかってきた“Role”、そして私たち大人の“Role”をも問い直しています。

 

(プロフィール)

そら

ヤングケアラー。重度の障がいのある弟のケアをしている。将来はケアラー支援に携わる仕事をしたいと考えており、社会福祉士の取得を目指している。ヤングケアラー協会が主催するイベントにも参加している。

 

執筆

花田優子

ビジネスケアラー、元ヤングケアラーというバックグラウンドを持つディレクター・ライター。様々な経験から得た当事者視点を強みとして、時事・社会問題からビジネス、ITまで幅広いテーマのコンテンツを制作。

記事一覧に戻るボタン
矢印 TOP 矢印 記事一覧 矢印 【#3】支えられる側から支える側へ――高校時代にひらけた、そらさんの世界 矢印