【#1】何重ものケアの真ん中に、小学生の私がいた――「世の中の問題をぎゅっと凝縮した経験をしてきた」そらさんの幼少期
2026.03.23
実家から大学に通うそらさんは、未就学児のときから母親と弟を支え続けてきたヤングケアラー/きょうだい児。弟は先天性の難病を抱え、生まれて間もなく入退院と見守りが日常に。母親は弟に付きっきりとなり、父親や祖母との関係性もギクシャクしていった。物心がついた頃には、そらさんは自然と弟の食事の準備や導尿の手伝い、精神状態が悪化する母親の心理的なサポート、家族の食事の買い出し・コミュニケーションの調整役などを担い、のちに不登校も経験することになる――「社会問題を凝縮してコンプリートした感じ」と語るそらさんの、複雑に揺れ動いた幼少期をたどる。
――弟さんの病気はいつ、どのようにしてわかったのですか。
弟は生後数か月で臓器の数値異常などの症状が出て、先天性の難病の疑いがありました。当時は遺伝子検査は海外で行う高額なもので、すぐに行うことができませんでした。重度の障がいがあり、障がい者手帳を取得して、結局生後10年以上経ってから検査して難病と確定しました。また、弟は病弱で体調の波が激しく、感染症が重症化しては入退院を繰り返していました。私が物心つく前から母はずっと弟の面倒を見ていて、母が布団の上で泣いていたのを今でも覚えています。
弟が入院すると、私が母と顔を合わせられるのは、週に1度父と病院へ面会に行くときぐらいでした。私が家で母と過ごせる時間はごくわずか。日曜日は、私は朝早く起きるけど母はお昼まで寝るというすれ違いの生活で、数時間だけ一緒に過ごしてお昼ご飯を食べると、母はまた弟の面倒を見に病院へ出かけていき、その背中を見送る日々が続きました。母とゆっくり話すことはできませんでした。
――お父さんはそらさんにどのように関わっていましたか。
父は私が小学生の頃までは、自転車に乗る練習や川遊びなど、母ができないことをやってくれました。でも、その後は父や母から「〇〇に連れていってあげるよ」って言われても、約束を守ってもらえないことが増えていきました。弟が昼夜逆転するようになってしまい、つられて母も昼夜逆転すると、体調不良で約束があっても行けなくなってしまうこともありました。そもそも、私が小学生以降は、弟の風邪が重症化してしょっちゅう入院しているような状態だったので、入院したら親との予定がパーになっていました。
――弟さんに対しては、どのような思いを抱いていましたか。
純粋に弟かわいいなっていう一択でした。病気があっても、笑っているときの弟は本当にかわいくて。
でも、入院のたびにお母さんが弟側につくのは、仕方ないってわかってるけど「なんか、ずるい。ずるいじゃないけど、なんか…」みたいな、うまく言えない気持ちもありました。言葉にするとライバル意識みたいなものなのかもしれないです。弟は守らなきゃいけない存在だと思っていたし、大好きなんだけど、お母さんを持っていかれちゃう感じがするというか。
しかし、早い段階で諦めがつきました。小学生のときに母と弟と3人で夏祭りに行く約束をしていたんですが、その直前に弟が入院してしまって。私はどうしても母と行きたかったから「病院の付き添いはおばあちゃんに代わってもらえばいいじゃん」と言ったら、母は「どうしても行きたいならおばあちゃんと行きなさい」って。「お母さんと行きたいんだよ」って粘ったら「わがまま言うんじゃない」と一蹴され、「何を言っても無駄なんだな」って思って、そこからあまり粘ることはしなくなりました。
表向きは「お姉ちゃん」として家族の雰囲気を読んで動いているけど、その裏でときどき「なんで私だけこんなに空気を読んでるんだろう」と思う瞬間もありましたね。小学生なのに「ここで私がこう言えば少し場が収まるかな」とか、「今これ言ったら余計に揉めるな」とか、変に大人びた計算をしているところがありました。その一方で、心のどこかでは「お母さん、こっちも見てよ」って思っている、年相応の自分も同時にいました。
家族の空気を気にして、自分が頑張って家族みんなを笑わせようとしても笑ってくれないのに、弟が退院して家でケラケラ笑ってるだけで雰囲気がパッと明るくなることもありました。「この子が笑ってくれているときは、みんなちょっと安心できるんだろうな」と思う反面、両親は無意識に私より弟が”上”だと思っているんだろうな‥‥という気持ちもありました。それは今も変わりません。
――「弟が上」と我慢して、感情が爆発してしまったことはありますか。
私の感情が爆発したことはほぼなくて、小学生のとき、祖母に一度怒ったぐらいかな。その日は、久々にお母さんと二人きりで過ごせて甘えられる時間だったのに、祖母に呼び出されてしまい、しかも祖母と母がけんかしそうになったんです。それで「数ヶ月ぶりにお母さんと過ごせる時間なのに、なんで邪魔をするんだ」って泣きながら怒りました。
そもそも、祖母と母は長年、言い争いが多かった。この時も結局、怒った後に私も冷静になって、2人の仲裁をするために「お互いちょっと頭を冷やそう」って提案した記憶があります。
――そうした家族の関係性の中で、そらさんは具体的にどんなケアを自然と行うようになりましたか。
私が保育園か小学1年生のときかな。母が朝起きてこられないことがあって、私が食事するタイミングで、弟もお腹空いてるかなと思ってご飯をあげたりとか、手を振ると音が鳴るおもちゃで遊んであげたりとかして、母が起きてくるまで時間を潰すみたいことを自然とやるようになりました。食事は親の見よう見まねで、食材を調理ばさみで刻んだり、介護の刻み食のようなものを作ってあげました。
とはいえ母に代わってたまにやる程度で、基本的には食事介助や着替えなどすべて母が面倒を見ていました。祖母が弟のケアの手伝いや夕食を作ってくれるときもあったけど、不満に思っていたようでした。母が夕食を作れなくなって、私が毎晩スーパーにお弁当を買いに行くようになった時は、「母親なのに情けない」って祖母が母を責める感じもありました。
記憶に残っているのは、弟が尿路感染症になって、導尿カテーテルを入れたまま退院したときのこと。両親がケアできないときは、尿を溜めるバッグの繋ぎ先を変えたり、膀胱に溜まった尿を流してあげるみたいなことを小学3~4年生でやっていました。
あるとき母が「導尿カテーテルを入れっぱなしにしない方が苦痛が和らぐかな」と言ったことがあって、私からしたら入れっぱなしだったからこそ自分も手伝えたし、両親しかできなくなっちゃうのはどうだろうとか、小さいながらにいろいろ考えていましたね。

状況を観察しながら、弟の体調・ケアについてや、救急車を呼ぶかどうか判断する際など、自分の意見を言って両親と一緒に考えるということは、小学6年生ぐらいからちょくちょくやっていた気がします。
きょうだいだからこその特殊能力なのか、なんかビビっとくるんですよ、変なときに。直前までスマホを見ていても、意識がふと向いて弟の方をちらっと見ると、「あれ、今弟の様子ちょっとおかしいな」って気づいたり。夜中2時過ぎぐらいに突然目が覚めて、なんか声が聞こえるなと思って見に行ったら弟の様子がおかしかったこともありました。この時、坐薬で対応するか救急車を呼ぶのか、両親の判断が求められる場面でした。内心は自分も混乱していたけれど、焦ってる空気を出したら場が乱れて両親の判断力にも影響すると思い、平静を装っていました。救急搬送した結果は、てんかんの重積発作でした。
ちなみに、意外と知られていないと思うんですが、弟が入院すると、感染症対策などの理由できょうだいの私は小児病棟に入れないことが多かったです。入院中は簡単に会えないから、救急車を見送るときに弟と絶対に握手して、頑張ってねって言ってました。心のどこかで、もしこれが最後になっても後悔がないようにしようっていう気持ちがありました。だから、弟が10歳の誕生日を迎えた時すごく嬉しかったことを覚えています。
――判断には責任も伴いますが、そらさんは小学校高学年で、すでに大きな責任を担いはじめていたんですね。その後、お母さんの体調や、ご家族の関係が変化していったときのことを教えてください。
その頃から、母親の体調やメンタル、母と父・祖母との関係とかが悪くなっていきました。当初は母もまだ若かったから、頑張れる日は弟のケアも家事も頑張って両立していた。でも頑張れば頑張るほど、頑張れる日とそうでない日の差が広がっていきました。
一方で、日中は仕事に行っている父は細かいところまでは見てないから、父と母の認識の差が積み重なっていったのかなって思います。夫婦げんかの頻度も増えていきました。
父が母に「普通に家事できないのはダメだろう」と言っていたりして、私が思わず「常にケアが必要な弟がいる時点でうちは”普通”の家族じゃないんだから、”普通に”家事をするのは無理だよ」って言い返したことを強く覚えています。
そうやって私が家庭の空気を読みながら仲裁をしたのは、母のことを一番知っているのは私だと思ったから。私は保育園に通い始めたのが年中からだったので、それまで母と一緒にいる時間が長かったから、母の苦労とか家での大変さなど、父や祖母が知らない部分を見てきました。。
この当時の私のケア負担について、母は「家族全員の夕食のお弁当を買いに行くことぐらいだったよね」と言っていますが、私としては、母の話や愚痴を聞いたりしたことも、家族の仲裁をしたこともケアだったと思っています。
弟や家族への複雑な思いと、子どもらしい気持ちとの間で揺れ動きながら過ごした幼少期。その延長線上で迎えた中学時代、そらさんは弟だけでなく、メンタルの調子を崩した母親のケアも担うようになり、学校生活にも影響が生じます。中学生になったそらさんが直面した現実と、不登校に至るまでの心境とは。(#2に続く)
(プロフィール)
そら
ヤングケアラー。重度の障がいのある弟のケアをしている。将来はケアラー支援に携わる仕事をしたいと考えており、社会福祉士の取得を目指している。ヤングケアラー協会が主催するイベントにも参加している。
執筆
花田優子
ビジネスケアラー、元ヤングケアラーというバックグラウンドを持つディレクター・ライター。様々な経験から得た当事者視点を強みとして、時事・社会問題からビジネス、ITまで幅広いテーマのコンテンツを制作。




