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Top 矢印 記事一覧 矢印 「人前で話しをしたことが、自分の過去の肯定に繋がった。」学生時代の母のケアの日々を振り返り、高尾江里花さんがいま思うこと、いま生きる意味。

部活、アルバイト、そして母のケアと並行し学生時代を過ごし、現在子供の頃からの夢であったブライダルの世界で働く傍ら、元ヤングケアラーとして講演などを通じてたくさんの人に伝える活動を行っている高尾江里花さんに、いまケアをしている人たちに伝えたいことを聞いた。

ーまずは、現在の活動に至るまでの経緯をお聞かせください。

現在は夢であったブライダルの仕事の傍ら、休みの日や隙間時間にヤングケアラー支援のお手伝いをしています。中学2年生の秋に母が脳内出血を起こし、死んでしまってもおかしくないほどのレベルで結果的に後遺症による右半身不随と失語症という言語障害が残ってしまいました。父と妹と一緒に母のケアをしていたのでひとりで全て抱えていたわけではなかったのですが、母が倒れた2週間後くらいに繊細な性格をもつ父も精神科に入院することになり、それから半年くらいは3歳年下の妹と二人暮らしをしていました。

父の病状が落ち着いてきた頃、リハビリのために2年間入院していた母も在宅ケアに切り替わり、それからは学業と並行して家族と一緒に母のケアをしていました。社会人になっていた23歳の頃に、元々脳内出血を患った母に乳がんが発覚し、そこから乳がんは猛スピードで進んでいき、発覚してから9ヶ月ほどで母は亡くなりました。

あまりにも突然の出来事でした。元々脳内出血による言語疾患や脳疾患のケアをしていたのですが、最終的にはがんでフィナーレを迎えたことに私としてはやるせなく何かが抜けきれないような感覚になったことを覚えています。

母が亡くなった後、たまたま見ていたYahoo!の特集か何かでヤングケアラーという言葉を見つけました。当時はヤングケアラーについての情報や講演会などの活動をしている人は少なかったので、文献や数少ない本を読んでいく中で宮崎(現一般社団法人ヤングケアラー協会代表)の存在を知りました。その後ヤングケアラー協会が立ち上がり私の方からTwitterでDMを送ったんです。その時は協会のメンバーになりたいという気持ちでDMをしたわけではなくて、シンプルにその活動に対し元ヤングケアラーとしてすごく有難いと思い、その感謝の気持ちをお伝えしました。そしたら元ヤングケアラーのみんなで集まりがあるので参加しませんかと連絡をいただき、それがきっかけで他の元ヤングケアラーの方々と出会い、ヤングケアラーあるあるで盛り上がったりしていました。その時はこんな自分のことを話して、共感してもらえて、気持ちがふっと軽くなるんだと驚きました。それから少ししてヤングケアラー協会のメンバーになり、元ヤングケアラーとして講演会や取材などの活動を本業の傍らに行っています。

ーケアをしていた当時、江里花さんの周りに家族以外で頼れる人はいましたか?

私にとっては祖父の存在も大きかったです。「頑張れ」ではなく「頑張っているね」と家に来た時に声をかけてくれたり、いまの経験は将来絶対に役に立つから、という祖父の言葉に心が救われたことを覚えています。祖父はテストで良い点数を取った時に褒めてくれたり、私たちがこの状況の中で頑張っていることを認めてもらえている気がしました。

しかし、学校の先生にはケアについてあまり深くは伝えてはいませんでした。「病院の先生ではないのだから話しても仕方ない」と感じていた部分もあり、特に不満などがあったわけでもないのですが、その当時は学校で話したところで目に見える何か解決策があるとは思えなかったのです。

私にとっての学校はケアのことを忘れることができた場所でもあり、そういう立ち位置、もしくは役割として捉えていた部分もありました。仲の良い友達にも心配させたり気まずい雰囲気になることを申し訳なく感じてしまう性格だったのでケアについては話していませんでした。いまは元ヤングケアラーとして教員の方を対象に講演会をする機会もあるのですが、お互いにどう踏み込んでいけば良いか分からず、難しいところではあるようですね。ケアのことを話すことで自分がどうなれるか、が明確に分かれば相談や話をしてみようと思ってくれるかもしれません。例えばスクールワーカーとかって、横文字で立派には見えますが、学生さんからしたらどういった役割なのか分かりませんよね。だから先生も相談してみたら、というような投げやりな感じではなく、スクールワーカーの方に相談することによって何か紹介してくれるかも、などと伝えてあげれば学生の人もアプローチしやすいかもしれないですよね。ゼロベースでいきなり話すことは難しいと思います。

ーたしかに、当事者でない人に話すことには大きなハードルがありますよね。

高校時代に仲が良かった友達が、同じくお父さんのケアをしていた経験があり、病気を持った家族がいるという共通点から話せたこともあったのですが、基本的には自分のことを積極的に話すタイプではありませんでした。もちろん誰もいない時に隠れて泣いていたこともありましたが人前で感情が溢れ出ることはなかった気がします。あと友達に話すことで自分がどんな回答を求めているかも明確ではなかったので、話をしてみて回答に困らせてしまった経験もあり、だからこそテレビや行事などのたわいもない話をしていることに救われていたのかもしれません。友達といるときは普通の子供でいたかったのかもしれません。

クラスの友人とおしゃべりしている時に、お母さんから何かを買ってもらった話や一緒にご飯に行った話で盛り上がっている輪に私が入れないこともありました。ただ、それを嫌だなと思うことは、母とのことを否定しているような気がして友達にも言えませんでした。言ってもよかったのかもしれません、いま思えば。友達ならケアの話も日常の会話の中に入れ込んでもらえたのかもしれないですし、ケアのことはわからないけど気晴らしにご飯に誘ってくれるかもしれません。友達からしても、ケアについて知らなかったことを知れることがプラスになったかもしれません。無理に話す必要はもちろんないと思いますが、話してみると意外といいことがあるかも、といまは思います。

ー日々のケアの中で、江里花さんやご家族の心境について、お話していただけますか?

「もっと何かできたことがあったのではないか。」

「出来ないことがあまりにも多く、ママはどんな風に思っているのかな。」

私の考えることではなかったのかもしれませんが、40代で倒れて大好きだった仕事も出来なくなって言葉も話せなくなり、この先平均寿命までのあと40年間、どのように過ごすんだろう、と母のケアをしながら考えてしまうこともありました。自分達のサポートが母の人生の充実感を上げることができると思っていたと同時に、自分の娘におむつを変えられているのは嫌ではないだろうか、そういったことを勝手に考え一人で悲しくなっていました。母の失語症により、彼女が伝えようとしていることの全てを理解できていた訳ではない事が、10年間のケアで一番のウェイトを占める辛かったことです。お風呂やトイレの介助などの身体面よりも、はるかに辛かったです。

ただ、家族としては母の明るい性格にとても救われていました。母が倒れてから急性期病院のあとリハビリのため2ヶ所の病院に通い、1年半後に退院した後はケアマネージャーさんに在宅で入っていただきました。当時、母は40代と若く、失語症はありましたが致死的な脳内出血をした割に身体的には元気でした。そのため就労継続支援B型の作業所に通っていたのですが、それが母にとって楽しく大きな存在だったようです。最初は週3回だったのが回復してからは週に4,5回にまで増えていました。そこでは同じ脳疾患をもっている方や身体が不自由な方達が集まっていたのですが、性格の明るい母はアイドル的な存在だったようです。片手片足でも器用に陶芸をしたり、風邪の時でも行きたがるほど作業所が大好きでした。母も倒れた当初は混乱していた時期もありましたが、作業所に行くようになってからは言葉には出来ないものの、その日のことを楽しそうに私たちに伝えてくれていました。やはり本人が楽しそうに話しているところをみると、それだけでも救われる部分があり、私たちの心の余裕になっていました。それが家族がしんどくならなかった理由の一つかもしれません。

ー授業や部活、アルバイトとケア。それぞれのバランスはどのようにとっていましたか?

小さい頃は新体操をしていて踊ることが好きでした。高校生になったら入部したい部活があったのですが母のケアで忙しく、イレギュラーなことも起きてしまうなかでどれだけの時間がかかるのか予想ができなかったため、週5日の練習日程がどうしても合わず入部を諦めていました。それでも高校生ながら家族の負担が少しでも減るように稼ぎたいという思いがあってアルバイトは続けました。もしケアがなかったら、アルバイトしたいと思っていたかは分かりません。ただ、母の状態から自分のお小遣いくらいは、と誰に頼まれるでもなく始めていました。

高校入学してから半年間ほどは学校でダンス部の公演を見に行ったりして、キラキラしている世界で自分も踊りたいという気持ちがどんどん高まっていきました。本来であれば途中入部はできないのですが、顧問の先生が理解のある方だったのでケアの事情を説明したことで無事、入部することができました。

高校2、3年生の時はケアをしていた10年間の中では母の体調も落ち着いていた時期だったので、私はアルバイトや部活もでき、当時中学生だった妹が家事を頑張ってくれていました。私もアルバイトと部活が無い時間には料理を作ったりと家事をしていましたし、父も仕事終わりに手伝ってくれて、家族のなかで担当がしっかりと決まっていたわけではなかったですが、出来る人がやる、で成り立っていました。

妹が高校生になってからは、私が社会人になっていたので理解ある会社のおかげもあり、私が母と一緒に通院したりして、上手く家族の中でバランスが取れていました。体力面ではきつく感じたこともありましたが….。

ー夢であったブライダルへの道に向かう中で、ケアが隔たりになるようなことはなかったのでしょうか?

いま思えばですが、自分で選択肢を狭めていたのかなと思います。振り返って、それぞれのターニングポイントで自分がとった選択に後悔は全くありません。しかし当時は自分の成績で確実にいける場所の範囲から学校を選び、もっと上の学校にチャレンジしてみる気にはなりませんでした。一般の大学に行ってもブライダルの仕事をすることはできたのですが、その時は20歳で就職したい、社会人に近道して自分の生活費くらいは自分で稼ぎたい、という気持ちが強くて。

周りは大学に進学する友達が多く、先生には進学を説得されましたが、専門学校に行ってブライダルの道で頑張ろうと半ば強引に志願しました。専門学校の合格通知をもらった時も先生からは、正直がっかりした、なんてダイレクトに言われたりしましたが、それが逆に私がブライダルの業界で絶対に活躍しようと心に決めた理由のひとつになりました。

父は小さい頃から勉強について寛容でしたので何事にも私が決めた道を応援してくれました。母は意思表示が難しく、脳の損傷もあり全てを理解できていませんでしたが、元々天真爛漫の明るい性格をしていた母が、動くほうの体でジェスチャーをして家族がそれを当てるというゲームをしたりして、笑顔のある環境でその時の生活と向き合えていたことは有り難かったですね。正直、ケアって十色だと思うのですが、他のヤングケアラーの皆さんと比べると、私の経験は家族の雰囲気を含め幸せに過ごせていた方だと思います。現在、元ヤングケアラーとしてこういった話を色々な場所でする中で、聞いてくれる方の層によってアプローチの仕方を考えるのですが、それでも私の話がとてもポジティブに聞こえてしまう人もいると思います。実際私たちは私たちなりに楽しく過ごしていたと思います。母自身が明るかったのもありますし、この与えられた環境でいかにポジティブ思考でいるかという力が私にも身についたのかもしれません。あとケアのことを少しでも忘れられる友人や、今思えば、母が倒れる前から思っていた、ブライダル関係の仕事をしたいという将来の夢が日々を乗り越える活力になっていました。 さすがに父が倒れて両親が同時に入院した時は、こたえました。ですが当時は中学生だったのでお医者さんに診てもらえれば大丈夫と思い、ケアに対して親の前で泣いたりしませんでした。妹は、私と違って天真爛漫だったのでそれが自分にとって良かったのかもしれません。どこか頭の隅でリハビリしたら治ってほしいという願いがあり、ケアや母の状態についても妹とは直接的な話はお互いが避けているところがありました。いまになって妹とお酒を呑みながら、「あの時よく頑張ったよね、うちら」なんて話が出来るようになりました。現在、妹も会社の慈善活動の一環で東北の被災地に行って小学生たちに元ヤングケアラーとしての授業をするような活動もしているみたいです。

ーケアの経験を通じて、何か得たものはありますか?

振り返ると、もちろん大変ではありましたけど、相対的に考えれば今の仕事や活動に活かせるようになったかなと思います。こういう経験があったから、当たり前のことにもすごく感謝できるようになりましたし、そういった意味では私にとっては良い経験でした。母との生活の中で多くのことを学び、いまこうして残された身としてはしっかりと生きないと申し訳ないので。

母の乳がんが発見された時は流石にメンタルはズタボロで、亡くなった後も、母の命をわたしがなくしてしまったんだなと考えてしまっていました。どうしてもっと早く気づいてあげられなかったんだろうとか、申し訳ない気持ちはいまでもあります。それをわたしの持ち前の明るさで振り切ろうとしているのかもしれないですね。いつかまた天国で母に会った時は、後悔することないくらいちゃんと生きてきたよ‼︎、と母に伝えるのがいまのわたしの目標です。

いまこうしてインタビューや講演会で話をしていくなかで、こういうふうに曝け出せていてすごいなという感想をいただくこともありました。でも人前で話すことは特に体力がいることで、活動を始めた当初はいつもぐったりしていました。やっぱりケアをしていた当時のことを思い出すのは辛い部分もあるので人前で話すことは大変ですが、人前で話すことで、自分の過去を認め、肯定できるようになっていったので、私にとっても有難いなと思います。わたしみたいにポジティブな伝え方ができる人がて知り、この経験を伝えることで少しでも救われる人がいると良いなと思います。

プロフィール

高尾江里花 1995年生まれ。13歳の頃から脳内出血を起こし右半身不随と言語障害を持つ母のケアを約10年間続ける。現在、幼少期からの憧れであったブライダル企業に就職。「一般社団法人ヤングケアラー協会」に所属。講演活動やメディアへの出演を通して自身の体験を発信している。

ライター:柴田ロマン

カメラ:柴田ロマン

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